『さらば、わが愛 覇王別姫』同性愛と文革で上映禁止!公開までの製作裏話
レスリー・チャン(張国栄)が京劇の女形、程蝶衣を演じて大きな話題を呼んだ名作、『さらば、わが愛 覇王別姫』。
カンヌのパルムドールをはじめ、たくさんの賞を受賞しましたが、当初、本国では上映禁止作品でした。
同性愛と文化大革命というモチーフが引っかかったようです。
「カンヌ映画祭でのパルム・ドールの受賞によって国内でも上映が許可された」と一般には言われていますが、実際にどんな動きがあったのか。
当時の中国で上映禁止になっても間違いないような作品なのは分かりますが、そもそもそれ以前に、具体的な制作に入る前の脚本の検閲で通るはずがないような…。
チェン・カイコー(陳凱歌)監督をして、「映画にしたら『覇王別姫』より面白い!」と言わしめた裏話をご紹介しましょう。
『さらば、わが愛 覇王別姫』上映禁止の理由は?
映画が公開されたのは1993年。当初は上映許可が下りませんでした。
理由は文化大革命が描かれていること、同性愛的な内容を含むことだろうと言われていますが、この2つをハッキリと指摘されたわけではないようです。
ただ、この2つが大きな原因であるのは間違いないでしょう。
今でこそBL要素のあるネットドラマなども公開されたり、バラエティでBL的なジョークが飛ばされたりもしますが、それでも検閲は厳しく、理由が分からないまま放送されないドラマがたくさんあります。
当時、同性愛は「刑法」の「流氓罪」に当たる行為であり、犯罪として取り締まられていました。
1997年に「流氓罪」が廃止されたことで、実質的に同性愛は犯罪ではなくなったわけですが、作品の公開が1993年ですから、公園で同性愛者が捕まったりしていた時代です。
最近でも2016年にネットで公開された『ハイロイン(白洛因)』は12回までは放送されたものの、途中からは「けしからん」ということで中国新聞出版広電総局に放送を禁止されています。
毛沢東や文革に関しては今でも非常に敏感な問題です。
それらがダブルで盛り込まれているとあっては、すんなり許可が下りるほうがおかしいでしょう。
『覇王別姫』の監督が決まるまで
1979年に李碧華が小説『覇王別姫』を書き上げ、これがテレビドラマ化されることになった時、もともとレスリー・チャンの大ファンだった李碧華は「程蝶衣はレスリーしかいない」と主張しました。
しかし、レスリーのマネージャーは「同性愛の役柄を演じるのはアイドルとしてのイメージに悪影響がある」と拒否。
1988年4月に台湾のプロデューサー徐楓(シュー・フォン)は友人から「これ面白いよ」と『覇王別姫』の小説を薦められます。
これが気に入ったシュー・フォンは李碧華に会って三日三晩話し合い、小説の版権を買い取り。
この時、李碧華は「もし私に俳優を選ぶ権利があるなら、蝶衣は絶対レスリー・チャンにしてほしい!」と要求。
キャスティングに関しても紆余曲折がありましたが、それはこちらの記事で。
「さらば、わが愛~覇王別姫」の主役はレスリー・チャンではなくジョン・ローンだった?
シュー・フォンがチェン・カイコー監督に『覇王別姫』の話を持っていくと、チェン監督は「考えてみる」との返事。
実際のところ、「考えてみる」は婉曲な断りであることは中華圏の常識。
その後、シュー・フォンは他の監督を薦められもしたけれど、絶対にチェン監督がいいと決めていたようです。
当時のチェン監督は『子供たちの王様(原題:孩子王)』のような非商業作品を撮っていました。
しかし、その手の作品は名作であっても売れないわけですよ。
シュー・フォンはチェン監督を以下のように説得しました。
「才能があるのに寂しいと思わない?
自己満足のためなら8ミリで撮って自分だけが見ればいい。
見る人がいないなら撮っていないのと同じよ。
作品のスタイル自体を変えろというわけじゃない。
でも映画にはいろいろな要素があるから、芸術と商業が相いれないものではないはず。
試してみない?」
これに心を動かされたチェン・カイコー。
プロデューサーの粘り勝ちでチェン監督が撮ることに決まります。
ダミーの脚本で検閲を通した!
『覇王別姫』を撮ることになったチェン監督。
一番にしたことは脚本家のルー・ウェイ(蘆葦)を訪ねることでした。
チェン監督は小説『覇王別姫』を読んで、演劇的な要素もストーリー性も弱い二流小説だが、テーマや人間関係の面は強みだと感じたようです。
そこで弱い部分を補えるような力のある脚本家ルー・ウェイに脚本を依頼。
ルー・ウェイは北京で生まれて西安で育った人なので根っからの北京っ子ではありません。
だから民国期の北平独自の方言や習慣・風俗などを把握するために『茶館』のビデオを見まくり、人とは北京方言で話すようにしたそうです。
さらに梨園の常識を学ぶため北京図書館、中国戯曲学院図書館、戯曲家協会に入り浸り、ついには戯曲協会にも入ってしまいます。
こうして2か月ほどでルー氏の京劇知識は専門家のレベルに。
(※ ここでの“戯曲”は日本語の“演劇脚本”ではなく中国語で“伝統演劇”の意味)
脚本を書き上げるとルー氏はチェン監督に、こう連絡しました。
ルー氏:この脚本は絶対に検閲を通らないと思う。検閲に通る程度のダミー脚本を書くから、申請の際はそれを使え。
チェン監督;政府をだますのか?
ルー氏:詐欺の汚名を着るか、撮らないか、どっちか選べ。
チェン監督は一晩考えた結果、返事は以下のとおり。
「君の言うとおりにする」
そこでルー氏は5日で検閲用の脚本を書き上げ、もくろみどおり無事に検閲を通過しました。
チェン監督は検閲をした国家映画局の役人に「何で、こんな作品が撮りたいんだ?」と言われ、「いや、自分はこれが撮りたいんです」と言ったとか。
毒にも薬にもならないような話だったんでしょうね。
内心、ひやひやだったことでしょう。
ちなみに、なんと、現在の小説『覇王別姫』はその時の脚本をもとに改訂されたものだそうです。
『覇王別姫』公開までの紆余曲折
こうして何とか脚本の検閲はくぐり抜けて映画自体は撮ってしまったものの、実際の撮影で使われた脚本は別物なわけですから、完成したフィルムはまた検閲の問題に直面します。
大陸での上映は案の定、いばらの道でした。
上映できないだけでなく、国内での金鶏百花賞などへの出品は許されず、中国大陸作品の部門で台湾の金馬賞にノミネートされても参加することが許されません。
香港ではまだ返還前だったので上映自体は可能でしたが、香港映画ではないので香港映画祭にも参加できず、まさに一時は八方塞がりな状態でした。
『覇王別姫』が公開に至るまでの紆余曲折は以下のとおり。
1993年1月:当時、まだ中国に返還されていなかった香港で公開。
5月末:カンヌ映画際でパルム・ドールを受賞した知らせを受け、北京映画製作所は祝賀イベントを用意。しかし、中国新聞出版広電総局のお偉方が映画を見て、「これは重大な問題がある」として映画の再検閲と責任者の審査を命じられ、祝賀イベントは取りやめに。
6月:鄧小平のお墨付きにより、上映可能に。
6月30日:上海『文匯報』に『覇王別姫』大陸で上映可能のニュース掲載。
7月:上映は可でもプレミアイベントや、広告・宣伝の禁止令
7月26日:上海の大光明映画館でプレミア記者会見が行われる予定が、当局の禁止令で記者会見なしの上映会のみに。この時点でチケットはすでに8月10日まで販売済み。
7月28日:北京の展覧館劇場で北京でのプレミアイベントを行う予定が当局の禁止令でファンミーティングに変更。本来この日から連続上映の予定が再び上映禁止令。
ただ上映禁止と言っても、連続上映ではなく上映会のような形で公開されてはいたもよう。
8月6日:上海・北京で次第に話題になってきたことで全面上映禁止に。
9月末;台詞の改定を経たことで、ようやく全国での上映が可能に。
上映が許されたのは鄧小平のおかげ?
恐らく世界的な映画賞パルム・ドールを受賞したことで、製作側が「これならいけるだろう」と思ったことでしょう。
しかし、現実は甘くない。
実際には猛烈な批判を食らいました。
このままではダメだと思った投資側は手づるを頼って鄧小平の長女・鄧林さんにビデオを渡し、
「お父上のご意見を伺えれば…」とお伺いを立てたそうです。
映画を見た鄧小平は「別に大きな問題はない。一部修正して上映すればいい」と言ったそうで公開できる運びになったとか。
恐らく、フィルムと一緒に渡した桐箱に入った山吹色の月餅を渡したのだろうと思うのは私だけではないはず。
お上から厳しい批評と猛烈な批判が下された製作所側は、すでに反省文を書き上げ、『覇王別姫』を制作した方向性と立場の重大な過ち」という動画も撮影して、今まさに自己批判に臨もうとしていたところ、鄧小平の許可が下りたそうです。まさに“寄らば大樹の陰”ですね。
何でもば鄧小平は京劇好きで老生の名俳優・言菊朋のおっかけだったとか。
今気づきましたが、鄧小平と言菊朋は何となく似ていますな。
言菊朋と鄧小平
改革開放の父であり、もともと「毛沢東バンザイ!」と思っているはずもない鄧小平。
さらに京劇ファンとくれば、作品自体がお気に召したのかもしれません。
チェン・カイコー監督自身は当時を振り返って、以下のように語っています。
「『覇王別姫』は鄧小平が見たあとで、やっと国内での上映許可が下りたんだ。
恐らく彼は文革を経験しているので、より広い視野でこの作品を見ることができたんだろう」と。
映画のどこに修正を加えたのか?
いったん上映許可が下りたものの、いざ上映を始めると禁止令が飛び、制限が加えられ、結局、大陸での上映は全面禁止となった後、いかに全国での上映許可を勝ち得たのか?
気になるのは、「どこに、どんな修正を加えたのか」です。
2006年に前文化部長の劉忠徳氏が取材に応えたところによると、同性愛的な内容はもちろん、侵略者である日本人が共産党よりも京劇を愛しているように思える部分にも問題があったとのこと。
しかしカンヌで受賞してしまっているので、これを上映しないとなると国内の不満の声はもちろん、海外からの批判もあるでしょう。
だからといって、共産党としてはそのまま上映許可を出すわけにはいきません。
劉氏は映画を何度も見て、修正案を思いつきます。
「5回見て、やっと改定案を思いつきました。
俳優が自殺するのは社会的によくない影響を与えるので、劇中劇の虞姫が自害する形とするのです。
頭を使って2秒で解決です。
修正後は全く印象の違う作品となりました」
具体的にどのように修正したのでしょう。
基本的には吹き替えを撮り直すだけで済んだようです。
映画の最後、老いた2人が再び縁R慈雨『覇王別姫』のラスト。
もともとは段小楼が「蝶衣!」と悲痛な叫びのように呼んだ後、微妙な笑顔が浮かんだ複雑な表情で、そっと「小豆子」と呼びかけていました。
これでは「文革の傷を抱えて同性愛に死す」かのごとく不健康なイメージで、よろしくないというわけです。
修正後は段小楼が長い沈黙のあと、京劇の台詞回しで「妃よ~」と呼びかける形に。
つまり死んだのは京劇の出し物の中の虞姫で役者の蝶衣ではないという解釈。
確かに後者なら、好みやいいか悪いかは別として希望が見えるラストと言えるでしょう。
長い文革を乗り越えた2人が再び『覇王別姫』を演じる。
覇王項羽の迫真の演技で虞姫に「妃よ」と呼びかけた段小楼は演じ終えて、長年のパートナーにかすかな笑みを見せる。
これならよろしいということらしいです。
どろどろで哀しくも滑稽な文革の告発のシーンなんかは問題じゃなかったんですね。
激しく問題視されたわりには、あっさり解決です。
実際には単にラストを修正したから修正可能になったというわけではなく、裏ではもっといろいろな人物やお金が動いているのではないかという気がしますが、スタッフや俳優の労力が無駄にならなかったのは何よりです。
虞姫を演じる蝶衣自身が舞台で死ぬことにこだわったレスリー・チャンとしては不満なラストだったわけですね。