レスリー・チャンは帽子が苦手!? トラウマを解消したのはエディ・ラウだった!

2019年5月7日

今も伝説の芸能人として輝き続けるレスリー・チャン(張国栄)。

しかし、そんなレスリーもデビュー当初から

華々しく活躍していたわけではありません。

そんな時代のトラウマでレスリーは長い間、帽子恐怖症でした。

それを克服させたのは、レスリーの友人であり、

彼のデザイナーでありスタイリストでもあった

エディ・ラウ(劉培基)でした。

レスリー・チャンの死後、エディ・ラウが

インタビューに答えた動画で

その話題について触れています。

 

客席に投げた帽子をステージに投げ返された!

レスリー・チャンがデビュー当時のこと、

ステージでテンションが上がったレスリーは

かぶっていた帽子を客席に投げました。

しかし、客席はそこまで盛り上がっていなかったのか

あるいは、そういう演出に慣れていなかったのか、

レスリーが投げた帽子はステージに投げ返されてしまいました。

その場は笑顔でステージを終えたものの、

幕が下りてからレスリーはトイレで

長い間、泣いていたとのこと。

このことがトラウマとなって、レスリーは長い間

帽子をかぶれなかったのです。

 

レスリー・チャンのトラウマを解消したのはエディ・ラウだった!

エディ・ラウ:

レスリーの「風継続吹」は非常に売れたけれど、

賞は取れなかったんです。

その夜、授賞式が終わって私たちは

羅文(ローマン・タム)のステージを見に行った。

ローマンがステージで歌っている時、

照明が暗転になった時、レスリーが泣いているのを見た。

涙を流していた。

あの涙を見て私は本当に……。

 

曹可凡:

それから、あなたはレスリーにチャーミングで

青春のエネルギーに満ちたイメージを創り上げたんですね。

そして、帽子をかぶらせた。

レスリーが帽子を嫌っていたことは

誰もが知っていますよね。

 

エディ・ラウ:

あの日は初めてのコンサートでした。

ポスターやアルバムジャケットのコーディネートをしました。

私が帽子を取り出すと、

レスリーは私をまじまじと見つめました。

私は彼にこう言いました。

「これを持って。

私を信じて、決して悪いことにはならない。

私があの連中に思い知らせてやる。

今の君は自信に満ちて、走ることも飛ぶこともできる。

この帽子を持って、この帽子を好きになって。

この帽子が好きだという様子を見せて」と。

コンサートの最後にレスリーが

帽子を脱いで客席に投げると……、

紅館全体に割れんばかりの拍手が鳴り響き、

皆がその帽子を奪い合いました。

その時、彼の屈辱が解消されたと思いました。

時にはスタイリストの仕事も頭が心を使った配慮が必要なんです。

服を作ったらそれで終わりではないのです。

彼が何を経験してきたかを知る必要があるんです。

 

曹可凡:

レスリー・チャンはあなたが彼を

大切にしてくれないと言っていたとか?

梅艶芳(アニタ・ムイ)をひいきしていたのですか?

 

エディ・ラウ:

しかたがないのです。

アニタ・ムイとは、とても長いつきあいだったので。

レスリーはこう言っていました。

「僕があなたと知り合った時には

アニタ・ムイはまだデビュー前だった」と。

甘えん坊の子供みたいです。

もう押しも押されぬ地位に立っていたレスリーが

急に私にこう言いました。

「エディ兄さん、思うんだけど、

あなたは僕をあまり大切にしていない。

あまり可愛がってくれないよね」

何のことか、ポカンとしました。

彼を見て「そんなことないよ」と言いました。

当時の私はとても忙しかったので、

(十分に接する)時間がなかったこともあるでしょう。

でも、そのあとの彼の言葉は心外でした。

「でも、僕はあなたの時間を占領してないし、

負担になってはいないよね」

なんてこった!

本当に、何て答えていいのか分からなくて、

ただ、こう言うしかありませんでした。

「分かった、レスリー。

じゃあ、それは私の借りとしておこう。

すまなかった」

(レスリーがそんなふうに思っているとは)

本当に考えたこともなかったんです。

そんなふうに私を慕ってくれていたとは……。

本当に、忘れられません。

 

レスリー・チャン トラウマ克服の瞬間

 

帽子の話は1985年の夏日百爵演唱会のことですね。

“紅館”というのはアジア音楽界ライブの聖地、

香港体育館、別名・香港紅磡体育館のことです。

レスリーが芸能界に入るきっかけとなった

コンテストに参加した際に歌った曲「アメリカン・パイ」。

残念ながら帽子を投げた客席の反応は映っていません。

でも曲が終わってからの黄色い歓声を聞けば想像できますよね。

 

「風継続吹」は受賞を逃すも翌年「モニカ」で受賞!

こちらは1984年度の十大勁歌頒獎典礼の動画。

十大勁歌頒獎典礼は “トップ10賞授賞式”と言ったところ。

この時には「Monica」が受賞しています。

1984年に創設された賞で、前年度のヒット曲に

賞を授与するもの。

動画の中で「受賞できなかった」と言っているのは

1984年1月に行われた十大勁歌頒獎典礼の第1回

1983年度のトップ10授賞式のことでしょう。

「風継続吹」は山口百恵が引退コンサートで歌った曲、

「さよならの向こう側」のカバーです。

1983年にリリースして大ヒットし、

その年のゴールデンレコード賞を受賞しました。

レスリーにとっては初めてのヒット曲で、

ノミネートされていたのですが、

惜しくもトップ10には入れませんでした。

11位もしくは12位だったと言われています。

この時代の香港歌謡は日本のカバー曲が

とても多かったのです。

「Monica」も吉川晃司のヒット曲「モニカ」のカバー。

 

甘えん坊は家庭環境のせい?

アニタ・ムイは母親が歌舞団を経営していたため

子供の頃から舞台に立っていましたが、

本格的な芸能界へのデビューは1982年です。

レスリーは1976年に歌謡コンテストで準優勝し、

1997年から歌手としての活動を開始。

1977年には華僑日報の“最も前途ある新人賞”を

受章してドラマに出演するようになっています。

デビューは確かにレスリーのほうが早いので、

先に知り合っている可能性もありますが、

その辺の情報は見つかりませんでした、

 

ただエディ・ラウはアニタ・ムイを可愛がっていたことは確かです。

1983年、アニタが東京音楽祭に出演した際に

衣装を担当したのを皮切りに、ずっと衣装を担当し

“西洋のジバンシーとオードリー・ヘプバーン

東洋のエディ・ラウとアニタ・ムイ”

と言われた仕事上の名コンビであり、私的にも非常に親しい仲でした。

アニタがトイレに行く時も、そばで話をしていたほどだそうです。

 

でも実際にエディ・ラウがアニタのほうを

より可愛いと思っていたとしても、

恋人でもないので、それを非難はできないはず。

そんな、わがままを口に出してしまうのも

レスリーならば許される気がします。

すでにエディ・ラウが自分を大切に思っていると

分かっているからこその甘えだったのでしょう。

レスリーはアニタとも大の仲よしだったので

ライバル心を燃やしているというわけでもなく

子供が母親に「妹と自分とどっちが大事?」と

聞くような感じでしょうか。

レスリーの母親は事業で忙しく、

レスリーは祖母の家で育ったそうです。

そして13歳で英国に留学。

自分を全肯定してくれるような愛に飢えていたのかも。

可愛がってくれる人に、よりいっそうの愛情を求めるのは

そういう生い立ちの影響もあるのかもしれません。


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