レスリー・チャンが語る「さらば、わが愛 覇王別姫」における演技と同性愛の問題

2002年2月22日午後、
レスリー・チャン(張国栄)は盧瑋鑾教授の招聘により、香港の中文大学で2時間の講演を行いました。
演題は「李碧華の小説の人物をいかに演じるか」
李碧華はレスリー・チャンの代表作の1つ、映画『さらば、わが愛 覇王別姫』の原作者です。
レスリー・チャンと李碧華は友人でもあり、『さらば、わが愛 覇王別姫』の主人公。程蝶衣はもともとレスリーをイメージして書かれた人物。
レスリーは李碧華原作の3作品に出演しています。

講演の中で『さらば、わが愛 覇王別姫(原題:覇王別姫)』の程蝶衣の役作りや同性愛という当時としては難しい問題を演じることにについて語った部分をご紹介します。

 

『さらば、わが愛 覇王別姫』の結末の処理

『さらば、わが愛 覇王別姫』の結末は非常に奇妙で、原作との差が大きいです。
原作ではもう1人の“虞姫”である菊仙が死に、“覇王”段小楼は香港に渡り、数年後に蝶衣と偶然再会します。
すでに芝居を辞めて久しい2人は銭湯で一糸まとわず語り合うが、愛に似た感情はすっかり薄れきっている。
映画ではこの香港での再開をバッサリと切って、舞台の上で自害する“虞姫”を描きました。
“覇王”段小楼はこの“女性”の現実における名前を叫び、その後は疑惑に満ちた笑顔が浮かんで幕。

映画のラストはチャン・フォンイー(張豊毅)と2人で組み立てました。
僕たちが経験した映画の前半部分と役作りでは大きな時代の波の中にいる感覚で、覇王が香港に渡っているという設定は考えにくかったからです。

文化大革命の部分は非常に重い芝居でした。
あの部分を経たあとでは、小説のように高齢になってからの再開を描く必要はないように思いました。
芝居の味わいが薄れてしまうかなと。
結局、彼ら2人はお互いに対する過去の感情と感覚で相手を思い起こし、そっと過ぎ去ればいいとう結論になりました。

僕とチャン・フォンイーは一貫して2人の人物の感情変化に着目していました。
特に兄弟子に対する蝶衣の感情の変化です。

当初、蝶衣は兄弟子を慕っていた。
中盤になって兄弟子が菊仙を愛することで、蝶衣は兄弟子に対する感情に執着するようになります。
最後には蝶衣も年老いて、もう過去に戻ることはできない。
しかし、兄弟子への想いは持ち続けている。

 

程蝶衣の死の3つの理由

だから蝶衣の死には3つの理由があります。

第一に覇王の目の前で死ぬことへの虞姫の執着。
物語の中で蝶衣は虞姫であり虞姫は蝶衣、2人の命運はオーバーラップしているのです。
“覇王”はもう活躍することはできない状態。
相手役であり虞姫を演じる“蝶衣”も、もうその想いを長らえさせることはできない。
だから覇王の目の前で死ぬのです。

第二に、蝶衣は自害することで物語を完結させようとしています。
蝶衣は夢見る人であり、舞台上で生の感情を演じることを愛している。
そして、その思いは兄弟子と演じる『覇王別姫』でしか満たされない。
兄弟子こそが最高のパートナーなのです。

舞台は蝶衣にとって夢を実現する場所。
だから現実生活の中で兄弟子との親密な感覚が失われた時、虞姫の役で人生を終わらせようとする。
リアルな『覇王別姫』を演じきろうとするのです。

第三に老いとを受け入れられず自ら命を絶つことを選んだ部分もあるでしょう。
蝶衣はその美しさで一世を風靡した人物です。
このことからも主役の2人が『覇王別姫』の物語から抜け出せないというのは、最も理にかなったドラマチックな処理と言えるでしょう。

それに蝶衣の性格からすれば、かつての精彩を失った覇王を前に、かつての華を失った自分が感情を引きずっていく。
こんな愛情はどう考えても受け入れられないでしょう。
こんな局面は耐え難いはずです。
現実生活の中で蝶衣は奔放な人間ですが、それゆえに最悪の状況を受け入れることができないのです。

さらに私の理解において、虞姫である程蝶衣は夢見る女性であり、舞台の上で生き生きと演じることを求めている。
舞台の上にこそ“彼女”の最もリアルな人生があるのです。
だから“彼女”を舞台の上で死なせるのは、最も理にかなった、最もドラマチックな処理なのです。

 

同性愛のモチーフをどう演じるか?

小説版の『覇王別姫』における李碧華の同性愛に対する表現や態度は明確で、寛容であり自然です。
しかし陳凱歌脚色の映画『さらば、わが愛 覇王別姫』は極端なホモフォビアに満ちていて、同性愛を個人が選択する志向をわい曲しています。

ひょっとしたら私は映画『覇王別姫』の表現を乱してしまっているかもしれません。
同性愛という面に関して言えば、あくまで内在するテーマとして語っているにとどまり、チェン・カイコー(陳凱歌)監督のカメラワークは非常に抑えられている、抑圧されすぎていると僕は思います。

国内でこのような題材を扱うには慎重さが必要であることは否定できないし、チェン監督にも苦しい胸の内があって回避したということは理解できます。
監督はいろいろな面から考慮する必要があるし、彼自身が成長してきた背景もあって、ああいった表現になったのでしょう。

それ以外に、映画が売れるかどうか、一般公開できるかどうかという問題においても、チェン監督がどう撮るかが重要な要素になります。
多くの方がご存じのように中国国内の政治的内容の審査は非常に厳しく、それゆえに国内では上演できない作品はたくさんあります。
『覇王別姫』も敏感な内容を扱っているため上映禁止作品となりました。
後になってカンヌのパルム・ドールや台湾の金馬賞を受賞したものの、中国大陸では今も上映が許されていません。

しかし、京劇が発展する過程の特殊な状況を見れば、舞台上の夫婦は皆男性であって、そこに男性同士の特殊な感情が生まれることは人間性にかなったことだと思います。

でもチェン凱歌監督は移管して男性同士の感情を明確に描くことを避けていました。
そこでコン・リー(鞏俐)が演じる菊仙によって同性愛を描くプロットのバランスを撮ったのです。
そのため、映画の中でのコン・リーの役の比重は大きくなりました。

だから僕は俳優として自分の本分を守り、蝶衣の役を演じきったまでです。
同性愛の題材に対してバランスを取ろうとする監督の姿勢にも一定の注意は払いながら、同性に対してもあとには引かない蝶衣の感情を適切な視線や動作で観客に伝えるようにしました。

同性愛的な表現に関してはチャン・フォンイーも避けていました。
例えば映画の中で腰を抱く場面でがあるのですが、チャン・フォンイーが僕の腰を抱く時には緊張して全身が震えていました。

 

受けた役は覚悟を決めて演じきる

個人的に1つの役柄を受ける際には、まず役を選びます。
その上で、撮影の際には最もいい状態で役に入れるように精神的な準備を整えます。
映画以前にテレビドラマの『覇王別姫』を撮る際に程蝶衣の役でオファーがありましたが、随分考えた結果、断りました。何年も後になって映画版のオファーを受けた時には、全面的に自分を開放することができました。

自分の役に生命を吹き込むためには、俳優として及び腰で演じるべきではないと思うのです。
そうでなければ役の生命と行き来することはできないし、演じた役も生き生きと鮮明に動き出しません。
でも撮影する過程では、1人の俳優として監督のバランスを取る方針にのっとって演じる必要がありました。
私にできたのは、その中で自分の能力を最大限に発揮することだけです。

もし『さらば、わが愛 覇王別姫』が原作に忠実に撮影されていたら、作品中の同性愛的なドラマはもっとリアルに描写され、同種のテーマを扱う作品の中での評価は、これ以降に撮影した『ブエノスアイレス(原題:春光乍泄)』よりも高くなっていたでしょう。
でも私が演じるうえでは、基本的には原作の制限を受けずに演じました。

俳優には開拓精神が必要だと思いますし、映画は文学から離れて独立した空間を作れる芸術ですから。
俳優はまったく新しい解釈によって役に別の生命を吹き込むことができるのです。

 

レスリー・チャンにとっては最高の作品ではなかった?

なるほど。

このレスリー・チャンの発言を読むと、世界で絶賛された『さらば、わが愛 覇王別姫』ですが、彼自身はこの作品の表現に満足しているわけではないことがよく分かりますね。
まあチェン・カイコーだから、仕方ないか。
そういう意味では『ブエノスアイレス』のほうが、より納得のいく作品だったのかもしれません。
レスリー自身は役者としての責任を果たし、プロとして与えられた条件の中で最高の演技をしたけれど、チェン・カイコーとチャン・フォンイーはなっとらん、ということですね。(極訳!)

レスリーが語っているように、この作品も制作当時は上映禁止作品でした。
しかし百度を見ると、実際には1993年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞したことで1993年に一般公開されたとされています。
カンヌが5月なので、それ以降の年内ということでしょう。
この部分はレスリーの勘違いかもしれません。
ただし公開といっても大々的な宣伝は行えず、国内の賞への出品も許されない状況ではありました。

また別のインタビューでレスリーが
「『覇王別姫』の同性愛的な感情は、現代のゲイとは違う」
というようなことを言っていたと思います。

「男性同士の特殊な感情が人間性にかなっている」という部分は、きっと、そのことですね。
男性だけで生活する、特殊な環境の中で育つ子供たちは、ただの友人同士ではありません。
肉親にさえ捨てられた子供たちにとっては、ある意味、家族以上の存在でもあり得るし、役者をなりわいに生きていくことを定められた彼らにとって、相手役は文字どおり重要なパートナーでもあるわけですから。

レスリー・チャンの美しさはもちろんですが、役に対する集中力、スタントを使わず自分で京劇も演じたプロ意識は本当にすばらしいと思います。
でも、逆に言えばそれをやるのが役者の仕事ってことですよ。
それに、そうやって人物の密度を高めていく過程が役作りの面白さでしょ?

後に同じくチェン・カイコーが撮った『花の生涯 梅蘭芳』でタイトルロールを演じたレオン・ライ(黎明)は京劇の部分はスタントを使っていました。
ちなみにスタントをしていたのは『さらば、わが愛 覇王別姫』で少年期の小豆子を演じていたユン・ジー(尹治)。
レオン・ライは中高年の梅蘭芳を演じるので、実際の人物に合わせて役作りで太ったとか何とかぬかしていました。
太っただけで役作り終了?

「レオン・ライ、ふざけるなっ!!」

と思った映画でした。
お粥を食べるシーンでの食べ方が下品で…。
相手は天下の梅蘭芳ですよ。
歌舞伎の女形と同じで京劇の女形も日常生活から立ち居振る舞いが違います。
歴史に残る女形であり、もともと梨園の名家のお生まれ。
書画もたしなむという文化人ですから、それはないでしょ?
ちなみに私はレオン・ライが嫌いなわけではありません。
『ラヴソング(原題:甜蜜蜜)』はとてもよかったです。
まあ、あれもマギー・チャンとテレサ・テンが歌う「甜蜜蜜」の力が大きいとは思いますが。
どんどん話がズレてしまいましたので、この辺で。

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