ウォン・カークイ(黄家駒)死亡事故の詳細!なぜBEYONDは日本デビューしたのか?

2019年6月13日

かつて香港のロック界をリードしたBEYOND(ビヨンド)のウォン・カークイ(黄家駒)。
彼の名前は覚えていなくても「海闊天空」のメロディを聴けば、「あ、この曲!」と思う人も多いでしょう。
香港から日本に活動の拠点を移し、日本でも知名度が上昇しつつあった1993年6月、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』の収録中に不幸な事故で世を去りました。

長い年月が去り、今の日本ではウォン・カークイの名を知る人も少なくなってきました。
しかし、当時のウォン・カークイやBEYONDを知る人にとっては生涯忘れることのできない人物です。
今もアジアの音楽界が愛してやまないBEYONDのウォン・カークイの死を振り返りたいと思います。

 

なぜBEYONDは日本に進出したか?

香港のロックバンドBEYONDのリーダーであり、ボーカルであり、最長年者であり、バンドの魂とも言うべき人物でした。彼なしにはBEYONDが存在し得なかったのは、彼の死後のバンドがどうなったかを見ても明らかな気がします。
日本でのデビュー以前に、すでにアジアでは絶大な人気を誇っていたカリスマバンドBEYOND。
しかし、ウォン・カークイは「香港に音楽界はない。あるのは芸能界だけだ」と当時の香港音楽界を批判していました。

そして、BEYONDは日本のアミューズ創業者、大里洋吉氏と出会います。
BEYONDを高く評価した大里氏にBEYONDも日本での可能性を感じて、1991年、日本での所属契約をアミューズと交わし、翌年には日本デビューを果たしました。
1992年初、BEYONDは興新芸宝からワーナーへ移籍した際に、ウォン・カークイは「香港の音楽界の束縛やモチーフの制限に捕らわれず、もっと自由に音楽をやりたい」と話していました。

当時、中華圏の音楽をリードしていたのは香港ですが、香港歌謡界は日本のポップスのカバーが全盛の時代で、もちろんオリジナルの香港ポップスが皆無だったわけではないですが、当時の人気歌手で日本の曲のカバーを歌っていなかった人は、ほとんどいなかったのではないでしょうか。

香港の先を行く日本で音楽の造詣を深めたいという気持ちもあったのでしょう。
また「香港に音楽界はない」と言っているように、香港での活動には不満や限界を感じていた彼らは別の世界への突破口を日本に求めたのかもしれません。

 

日本でのジレンマ

アジアではすでにスターだった彼らも日本では一からの出発。
しかし、彼らが歌う「長城」のイントロが当時の人気番組『進め!電波少年』のオープニングに使われたり、爆風スランプの「リゾ・ラバ〜International〜」に作曲で協力したりと着実に知名度を上げていました。

ただ、仕事の上で基本的に香港社会よりルールやマナーも厳しく、習慣も違う日本の社会での活動は、彼らにとってかなり厳しいものだったようです。「もっと自由に音楽がやりたい」と考えて日本に活路を求めたウォン・カークイですが、日本には日本の制約や障害がありました。

事故が起きたのは1993年6月24日。
その頃、カークイの精神状態は非常に不安定で、メンバーのポール・ウォン(黄貫中)に「いったん活動を休止しないか。すごく疲れてるんだ。今回の10周年記念アルバムを出したら、自分たちのやりたいことをやろう」と話していたとか。

また、日本で嫌なことがあると香港の友人のマイク・ラウ(劉宏博)に電話をかけていたというカークイ、事故が起きる前日の23日にも電話をかけて、日本での苦痛を4,5時間も訴えたそうです。
自分の音楽理念と事務所の方針との食い違い、事務所から課せられる制限などで自分の初心からどんどん離れていくことに対する焦燥。
それらに対する怒りで泣き出しそうになって、「こんなことなら香港に戻ったほうがいい」と口にしていたカークイ。
純粋に音楽を目指すウォン・カークイはバラエティなどの仕事は望んでいませんでした。

もちろん事務所としては知名度を上げるためにも必要な活動ではあったのでしょう。
しかし、日本でやりたい音楽をやることを目指してきた彼らにとっては苦行だったようです。

 

ウォン・カークイ「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」死亡事故はいかに起きたか

1993年6月24日、深夜1時。
25日にリリースされる日本での3枚目のシングルの宣伝も兼ねて、BEYONDは当時フジテレビの人気番組だった『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』の人気コーナー「やるやらクエストⅡ」収録にゲストとして参加していました。

フジテレビ第4スタジオに設けられたセットは以下のようなもの。
約2.7メートルの高さのセット中央には水槽が設けられ、二組に分かれた12人のゲストが、水の上に渡された細い橋を渡って、その上に吊り下げられた宝物を奪い合うというゲームです。

ゲーム開始から15分後に事故は起きました。
関係者によるとセットは水浸しになっていて、セット下手の狭い場所に人が集中していたようです。
そこへ橋を渡りきった人物が飛び込む形になったためにウォン・カークイは足を滑らせてコンクリートの地面に転落。
運悪く頭から着地したため昏睡状態に陥って東京女子医大に搬送されます。
頭にヘルメットをかぶっていたウッチャンも同時に転落していますが、胸から落ちたために全治2週間の打撲傷で済んでいます。

セットの上手下手と背面には薄いベニヤ板が施されていたものの、バランスを崩してぶつかった人の体を食い止められるほどの強度はありませんでした。
またコンクリート面にはマットや緩衝材は敷かれておらず、不安定な高所での収録でありながら転落に備えた安全措置が何もなされていなかったことに、中華圏の報道では非難が集中しました。

 

事故後の経過

以下は中華圏のネット上やウィキペディアに残る当時の状況です。

1993年6月25日

知らせを受けたウォン・カークイの家族が日本に到着。
香港では人気アーティストの重大な事故とあって大きく報道。
日本では各社が報道したものの、詳細は赤報道されず、ウォン・カークイとウッチャンの容体についての詳細も報道されず。

1993年6月26日

香港の脳外科医が「すぐに昏睡状態に入っていることから、脳にかなり大きな衝撃を受けたと考えられる。また脳が膨張して頭蓋骨内の圧力が一定以上になると脳出血により死に至る。脳出血を治療するためには開頭手術をして出血でたまった血を取り除き、脳圧を測りつつ薬物で圧力を下げる必要がある」と説明し、「外伝によると手術は行われていないようだが、これはおかしい」と指摘。
また香港の映画会社ゴールデン・ハーベストが、ジャッキー・チェンがユーゴスラビアで『サンダーアーム/龍虎兄弟』を撮影中に頭蓋骨骨折の大ケガをした際に手術を担当した2人の医師に治療を依頼しようとしたものの、当時はユーゴスラビア紛争中で1人はゆくえが分からず、もう1人もセルビア側の軍医として派遣されていて日本に赴くのは難しい状況だというような報道がされています。

香港では民間放送局2局がウォン・カークイの回復を祈る祈祷集会を開催。
香港のメディアは「日本の情報封鎖によって一部の情報しかつかめない」としながらも、多くが「現時点では最悪の事態ではない」と報道。
アミューズが日本に滞在していた気功師の辛勇さんを招いて治療を施し、漢方薬の投薬もしたが効果は見られず。

この日の『やるならやらねば』の放送は、冒頭で番組収録中に事故があったことを告げ、「負傷されたウォン・ガークゥイさんの一日も早い回復をお祈り申し上げます」というテロップを流して通常通り放送。
次の週10日はナイターで放送がないが、この時点では翌々週の7月10日には放送予定。

1993年6月27日

香港の新聞が祈祷会の様子とウォン・カークイの治療状況を報道。
多くの報道がカークイの日本語での呼称「コマ」が英文の“Coma”(昏睡)の発音に通じ、縁起が悪いと指摘。

1993年6月28日

フジテレビが香港とのホットラインを設立。
BEYONDメンバー、マネージャー、フジテレビのディレクター、主治医の顔ぶれで記者会見を開催。
主治医が依然として危篤状態であることを発表。
会見ではメンバーらが「なんとしても回復させたい」と訴え、実の弟でもあるウォン・カークン(黄家強)が「落ちたのが自分だったらよかった」と頭を抱えて痛哭。

1993年6月29日

香港ではウォン・カークイに関する新たな情報は報道されず、恐らくウォン・カークンの記者会見の言葉からカークイに対する報道が高まる。

1993年6月30日

当日の東京は雨。
香港の報道は「カークイの容体は安定している」「我々には祈るしかない」という内容以外に、安全措置を怠ったフジテレビの危険な収録状況に対する非難や「情報封鎖はしていない」という日本側の主張が主で新たな情報はなし。
しかしこの日、午後4時15分、ウォン・カークイは31歳の人生の幕を閉じました。
死因は急性脳膜血腫、頭蓋骨骨折、脳挫傷、急性脳浮腫など。
家族と他のBEYONDメンバーや友人らに看取られての最後だったそうです。

1993年7月1日

あらゆる香港メディアがウォン・カークイの死を報じ、新聞のトップはすべてこのニュース。
香港のテレビ局はウォン・カークイ死亡の報道と同時に特別番組や追悼番組や日本のテレビ番組の安全性に関する討論などを放送。

1993年7月2日

香港メディアは引き続き彼の死を報道し、テレビでは追悼番組。
ウォン・カークイの家族が遺体と共にCX50で香港に帰郷。
空港では多くのファンが涙ながらに出迎え。
またウッチャンナンチャンがウォン・カークイの家へ弔問に訪れるとともに地元のテレビ局で当時の状況を説明し、遺憾と哀切の意を表明。

1993年7月3日

香港の一部メディアが葬儀に関する報道。
フジテレビの人間も弔問。
BEYONDメンバーが記者会見。
夜にはウォンの遺体が香港の葬儀場に移されました。
30日にカークイが亡くなったことを配慮してナイターで野球中継は中止となったが『やるならやらねば』は放送されず。

1993年7月4日~5日

7月4日の夜には夜通しでのウォン・カークイを記念する集まりが催され、民間テレビ局も高山劇院で「永遠に家駒を忘れない」と題した追悼コンサートを開催。7月5日、公式告別式が行われ、会場周辺はもちろん、葬儀場を出る霊柩車にファンが駆け寄り、交通が混乱して警察が出動する騒動に。
カークイは将軍澳華人永遠墳場に埋葬されました。

7月9日

BEYONDのメンバーも参加して日本で追悼集会。

7月10日

『やるならやらねば』は放送されず、放送時間には番組の打ち切りのおわびとウォン・カークイへの追悼と挨拶。

7月11日

東京の芝浦増上寺に700人余りのファンが集まり追悼式。
その後、メンバーによる記者会見。

 

どんな治療が施されたのか

中華圏の報道によれば、「手術をしなかった」と伝えられています。
日本では当時も容体の詳細は報道されていなかったようです。
ネット上に残る情報も少なく、どんな状況だったのかん、手術ができない状況だったのか詳しい報道記事は残っていません。

24日にケガをしてから30日まで持ちこたえていたことを考えると、何万分の1の可能性でもいいから手術に賭けてみてほしかったと思う気持ちが個人的にはありました。
しかし、事故の翌日にはご家族も到着して、当然意向は確認されていると思うので、最善の手段が施された結果だと信じるしかありません。

中華圏のネット上には日本より、もう少し情報が残っています。

26日に気功師が治療を施し、その後、血圧が正常に戻っていた。またこの気功師によると、“安宮牛黄丸”(注:“安宮牛黄丸”、“蘇合丸”、“至宝丹”の3種の薬の説もあり)を服用させる必要があると主張し、香港や台灣でもこれが報道されたことでファンは薬局を駆け回った。
まもなく「中国大陸の安宮牛黄丸の供給商と連絡が付き、薬は確保できた!」と報告された。

しかしウォン・カークイの友人でもあった爆風スランプのファンキー末吉氏のサイトによると、日本の薬事法に抵触するということで世界各地から送られた薬は税関でストップ、運よく没収されなかったり、国内から提供された“安宮牛黄丸”も医師が薬事法に違反する薬を使用するわけにはいかず、使わずに終わったとのこと。

薬事法に抵触するのは朱砂(水銀)や雄黄(ヒ素の硫化鉱物)を含んでいるからでしょうか。
確かに“安宮牛黄丸”は中医学における「毒をもって毒を制する」タイプの強い薬で、慎重に使うべき薬ではあるようです。中医の専門家によると、これらの薬は中風やマヒ、脳卒中の後遺症などには効果があるものの、脳出血で昏睡状態にある患者に使うべきではないという指摘もあり、気功師がこれを使用するように主張したとの説は若干信憑姓に疑問もあります。

ウォン・カークイの友人でもあった爆風スランプのファンキー末吉氏のサイトにこれに関する記事がありました。

「もうね、西洋医学では全く手の施しようのない状態だったんだ。
そうなったら東洋医学にでも何にでも頼るしかない。
“安宮牛黄丸”という漢方薬が効くかも知れないということで、
LaoLuanの弟のLuanShuに国際電話をかけたんだよね・・・」

ファンキー末吉氏サイトより

“安宫牛黄丸”が効くかもしれないとの発案はファンキー氏自身、あるいは誰かの意見を聞いた可能性もあり、どこから出たのか定かではありません。
しかし「安宮牛黄丸が必要だ」と中華圏に手配をかけたのはファンキー氏のようです。
だとすると「安宮牛黄丸が必要」という事情はファンキー氏に電話を受けた黒豹のルアン・シューから中華圏のメディアに伝わったのかもしれません。

中国サイトには

「中国では送っても税関で止められるから、黒豹のルアン・シュー(欒樹)自身がわざわざ飛行機で日本に届けた」

というエピソードも残っていますが、ファンキーさんのサイトを見ると

「高価なこの薬を買い集めて、そしてそれを日本に送ることもなく黄家駒は死んだ・・・」

と書かれているので飛行機で届けてはいない?

また、黒豹のメンバーのチャン・ミンイー(趙明義)は当時を振り返って、以下のように答えています。

「ウォン・カークイが日本で事故に遭い、日本からうちのボーカルのルアン・シューに電話があり、“安宫牛黄丸”という薬が必要だと言われた。そこでルアン・シューは北京の薬局で手に入れて日本に届けた。日本から『効果は悪くない』という返事があったので、第二便を送るためにたくさん買ったが、それを送らないうちにカークイが亡くなったとの知らせが入った。今でもこの薬はルアン・シューの家にある」

最初に送った薬に対して「効果があった」と言ったのは、善意に対する優しい嘘の可能性もあります。

カークイの友人のギタリスト、パル・シン(単立文)は事故から3日後に日本を訪れて最期を見送った1人ですが、インタビューの中で

「絶望的な状況で、荒唐無稽な方法もすべて試した」

と言っていますので、恐らく気功も漢方薬も、それ以外の方法も試されたのでしょう。

ウォン・カークイの最期をパル・シン(单立文)が語る「あらゆることを試した」

実際に何が試されたのかは、もはや重要ではありません。
これらから分かるのは絶望的な現実の前に、それでも何とか回復させたいと客観的に見たら荒唐無稽な方法まで試して、祈るしかなかった状況のように思われます。

日本のブログには漢方薬での治療ができなかったことを悔やむ声があります。
私自身も「手術されなかった」という情報に対しては「本当に打つ手はなかったのか?」、「漢方治療できなかった」という話には、「絶望的だからこそ、試すべきではなかったのか?」と考えていましたが、今回、ネット上に残された情報を探してみて、恐らくは手術しても助からない状況で、“安宮牛黄丸”を使うこと自体に大きな希望があったわけではないのだろうと思えてきました。

ただ、収録時の安全対策に関しては、やはり不満が残ります。
ああなってしまったからには、もう運命は変えようがなかった。
しかし、そうならないための対策が施されていなかったことは事実です。
気をつけていても事故が起きることはあるでしょう。
でも、せめてベニヤ板がもう少し分厚いコンパネで頑丈に取りつけられていたら、地面にウレタンが敷かれていたら、ウォン・カークイがヘルメットを被っていたら……最悪の事態は避けられたはずです。

多くの人に感動や勇気を与える才能を持った人物が、こんな不始末で早々に命を落としたのは本当に残念です。
フジテレビが支払った賠償金は10億円とも言われていますが、社会にとっては防げた過失で文化財を破壊したようなもの、家族にとっては大切な一員を奪われたわけですから、いくら支払おうとお金で償いきれるものではありません。
6月はカークイの誕生日6月10日と命日6月30日がある、うれしくも悲しい月です。
二度とこんな事故が起きないことを心から祈ります。

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