ウォン・カークイ(黄家駒)はなぜ死んだのか_ルオ・ダーヨウ(羅大佑)の言葉

2019年6月13日

1993年6月24日、日本で『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』の収録中に起きた事故で危篤状態になったウォン・カークイ(黄家駒)は6月30日に亡くなり、香港の多くのメディアやファンが日本のテレビ局やメディアを批判しました。

撮影の際の十分な安全措置を取っていなかったことに対して、また報道が少なかったことで情報封鎖の疑いを持ったためでもあります。

「日本に行かなければウォン・カークイは死ななかった」と、音楽を追求するために日本に行ったはずが、バラエティで芸人のようなまねをさせられていたことを悔しがる声もたくさんありました。

当時、台湾のミュージシャンでありウォン・カークイを高く評価していたルオ・ダーヨウ(羅大佑)は、ウォン・カークイの死に対して『誰がウォン・カークイ(黄家駒)を殺したのか』という文章を発表しています。

雑誌に発表された文章のようですが、出典は不明です。
その内容をご紹介しましょう。

 

誰がウォン・カークイ(黄家駒)を殺したのか?

ウォン・カークイ(黄家駒)は香港人でBEYONDは香港のバンドだ。
しかも香港で名を知られ、非常に歓迎されたバンドだ。
なのに、なぜ香港ではなく日本で死んだのか?BEYONDのボーカル、ウォン・カークイが亡くなったことは、全世界を揺るがせた社会的なニュースだった。
そう、芸能ニュースではなく社会ニュースだ。

芸能ニュースは大衆を楽しませるものであり、ゴシップだ。
人の命がなくなったのに、これを芸能ニュースだと言うのか?
私がウォン・カークイの死を社会ニュースだと言うのは、その死が多かれ少なかれ、ある階層の社会や人の心の問題を浮き彫りにしているからだ。

これほど多くの新聞の報道は、どれもカークイが昏睡状態に入った時から亡くなって葬儀を行われた時までのものでしかなく、この死の原因と結果を分析するものは全くない。

ウォン・カークイの死を無駄にしないために語るべきテーマは、「誰がウォン・カークイを殺したか」だ。
人が死んだんだ。
誰がウォン・カークイを殺したんだ。

 

ウォン・カークイ死亡の原因と結果

日本人やフジテレビを責めるな。
日本の芸能界のシステムは香港より、ずっと健全だ。
テレビ局の仕事は香港よりも、もっとプロフェッショナルだし、保険やセキュリティーシステムも香港より劣っているわけではない。

日本でこの番組に出演することは、BEYONDが日本で成功するためには重要だった。
フジテレビから派遣された幹部クラスの人間が香港で事情を説明し、謝罪する過程からは、彼らがプロフェッショナルとして責任を取っていることが分かる。

こう言ってもいいだろう。
もし今日、台湾や中国大陸の歌手が香港で同じような事件に遭遇したとする。
香港のメディアは同様のプロフェッショナルな対応ができるだろうか?

できるとは言いきれないだろ?

だからBEYONDのファンは日本人を責めるな。
衝動と激情のもとで日本人や記者を罵倒する気持ちは理解できる。
でも日本人がウォン・カークイを殺したわけじゃない。
番組への出演は必要だった。
不幸な事故以外のものではない。

 

なぜウォン・カークイ(黄家駒)は日本で死んだのか?

私が聞きたいのはウォン・カークイが、なぜ香港でなく日本で死んだのかということだ。

ウォン・カークイは香港人でBEYONDも香港のバンドだ。
しかも香港では有名で非常に愛されているバンドなのに、なぜ香港でなく日本で死ぬことになったのか?

簡単なことだ。
カークイは香港で音楽をやることに未来がないと思ったから、日本に活動の場を移したのだ。

「何だって?」と君は言うだろう。
「あんなに愛されていたのに香港には未来がないって?」と。

それは君があまりにも音楽を、香港の音楽界を知らなさすぎるからだ。
これに対してBEYONDは知りすぎていた。

非常に不幸なことに、香港の音楽界はオリジナルを尊重しない場所だ。
日本は極めてオリジナルを尊重する音楽市場であり、ヒットチャート100番までの曲の99%以上がオリジナルだろう。


日本では編曲やパクリは音楽界からも社会からも最も軽蔑される行為だ。
そして不幸なことに、これら最も軽蔑されるどこかで聞いたような曲が香港では非常に歓迎されている。
香港市場の70%以上が日本の歌や英語、スペイン語の歌などをパクったものだ。

BEYONDは一貫してオリジナルの姿勢を貫いてきた。
彼らは、それが自身のスタイルの問題であるだけでなく、基本的な尊厳の問題、音楽の最低限の尊厳に関わる問題であると知っていたからだ。
基本的な尊厳を少しも追求することなく、いかにメディアやファンに気に入られるかだけを考えている香港の音楽界では、BEYONDは絶対に生きていけないだろう。

オリジナル音楽を作るだけで、バンドは活動の半分以上の時間とエネルギーを消耗する。
だが他の連中は人の曲をパクって口を開けて歌えば、それでOKだ。
こんな不公平な競争の下で、どうやってBEYONDが香港で生存できるだろう。

カークイは「歌舞団になりたくない。猿芝居をしたくない。自我を失うほどに自分を演出したくない」と言っていた。

1997年香港の中国返還の不安も1つの原因か

なのは、例えばサミュエル・ホイ(許冠傑)の頃のオリジナル曲が作れる優れた作曲家――顧嘉輝、黃霑、林敏怡、Beyondのカークイなどは自分の仕事をしながら上の人間とどう意思の疎通を図るかという問題で、1997年前に移民を考える可能性があることだ。

特にカークイは一番残念だ。
BEYONDは香港で唯一の真にオリジナル曲を歌うバンドなのだから。

社会人には現実を表現した歌が必要だ。
こういう歌がなければ社会は味気ないものになってしまう。

この社会の音楽は国際的なレコードレーンベルにコントロールされていて、歌手はこうした歌を歌うすべがなく、国際的なレコードレーベルは香港の声、香港自身の声や市場をコントロールしているのだ。

BEYONDはオリジナル曲を書くのに、なぜ他の連中はパクるのか。
手っ取り早いからだ。
1対4、管楽を作るのは大変な作業だ。
だからBEYONDは日本に発展の場を求めた。

日本人に言わせれば、BEYONDには香港人が歌う中国語曲としての本物の声があるという。
私は「香港の音楽界がカークイを殺したと思う」と書いたことがある。
香港の音楽界がオリジナルを尊重していたら、BEYONDは日本に行かなかっただろう。
この教訓でもまだ足りないなら、未来はないと思う。

ずっと前からオリジナル曲の提唱してきた。
だが1997年の香港返還前には解決できない。
オリジナル曲を作るアーティストのコンサートもずっとやってきた。
だが状況は変わらないどころか、パクリはどんどん増えている。

5大レコードレーベルが市場をコントロールしているからだ。
何としても1997年までに。
しかし1997年以降、変化はさらに激烈になる。

ルオ・ダーヨウが1997年に言及していますが、1997年はイギリス領香港が中国に返還された年。
中国大陸では当時は大陸の文化やファッションをリードしていた香港が中国になるということで、大陸では皆がその日を待ってワクワクしていた頃。
返還前1992年には大陸のシンガーソングライター、アイ・ジン(艾敬)が『私の1997年(原題:我的1997)』という歌で「1997年、早く来て。ヤオハンって結局どんなところ? 1997年、早く来て。私も香港に行けるようになる」と歌っていました。
この歌は、まさに大陸から見た返還への希望を代表していました。

逆に植民地でありながら、本国よりも自由を謳歌してきた香港は、一転して大陸の制度で締め付けられる日が来るのかと戦々恐々。
まだ天安門事件の記憶も生々しい頃です。
芸能人や香港のお金持ちは一気に海外の国籍を求めて香港を脱出していた時代でした。

ウォン・カークイの危機感は当然そこにもあったのでしょう。
実際に返還を終えて、一国二制度の建て前はあるものの、香港はかつてのエネルギーを失ってしまいました。

これに反して改革開放の進んだ大陸は大いに発展し、今では香港や台湾の芸能人も大陸に活躍の場を求めています。
中国大陸は市場も大きいし、芸能人のギャラも高いから。

中南海の顔色を見なければ大陸での成功はないだろうから、ロッカーのカークイが現代に生きていたとしても、当時とは別の苦悩がある可能性は高いです。
でも少なくともパクリ全盛の時代は終わって、香港はじめ中華圏の音楽界も変わっている。
もしウォン・カークイが生きていれば、もしカークイのいるBEYONDが今も活動を続けていれば、アジアのビートルズのような存在になっていたかもしれません。

 

BEYONDとウォン・カークイの理解者ルオ・ダーヨウ(羅大佑)

時代が時代だったせいもあると思いますが、ルオ・ダーヨウはBEYONDの音楽だけでなく、音楽人としての姿勢を非常に高く評価し、残った3人に対しても、ウォン・カークイの存在が鮮烈すぎたからこその3人BEYOND存続の難しさを理解したうえで愛情ある目線を向けています。

BEYONDは1つのバンドじゃない。1つの象徴だ。
我々の時代を象徴し、香港音楽界を象徴する。
それに特に強調しておきたいのは3人のBEYONDもすばらしいということだ。
彼らはそれぞれが個性的で、個々の魅力を持っているし音楽もいい。

生きている者を死者と比較することは永遠にできない。
それは彼らにとって不公平だ

ウォン・カークイに対しては音楽の才能はもちろん、存在自体を英雄のように評価しています。

こういう人間が世界に降臨したこと自体が奇跡だ。
神様がウォン・カークイを俗世に送られた。

だが凡人は彼を大切にしないどころか、罵声を浴びせ、呪った。
その結果、神様はウォン・カークイを天に呼び戻されたのだ。

神様はもう二度と次の音楽の天使を遣わしては下さらないだろう

ルオ・ダーヨウの言葉を「お前に何が分かる」「わざとらしい」「作りすぎ」という中国人ファンの声もあります。
私は当時の中華圏音楽界の内情を詳しく知っているわけではないし、当時はBEYONDの歌を聴いていただけで、その背景の葛藤や苦悩も知りませんでした。
ルオ・ダーヨウの人となりも知らないので何とも言えませんが、ウォン・カークイが才能や個性に満ちたアーティストだったのは確かだと思います。

この言葉がルオ・ダーヨウの本音か一種の演出かどうかは分かりませんが、才能の可能性を断たれた若きアーティスト、ウォン・カークイに対しては、決して過剰な表現ではないように思います。

ウォン・カークイは今や伝説の人物といってもいいですが、彼としてはもっともっと生きていくつもの伝説を打ち立てたかったでしょう。

残ったBEYONDの3人、頑張れよ!
そして私も、そしてあなたも。


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