「さらば、わが愛~覇王別姫」の主役はレスリー・チャンではなくジョン・ローンだった?
『さらば、わが愛~覇王別姫(原題:覇王別姫)』はチェン・カイコー(陳凱歌)監督最高の名作にして、レスリー・チャン(張国栄)の代表作でもあります。
1993年のカンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールを受賞した、世界が認める名作であり、原作小説がある作品ですが、主人公の程蝶衣はまるで当て書きをしたようで、レスリー・チャン以外考えられないと思えるほどぴったり役にハマっていました。
しかし、程蝶衣の役は本来、ジョン・ローンが演じるはずだったらしいのです。
ネットで情報を探してみると、キャスティングには紆余曲折があったようで、ジョン・ローン以外の俳優の名前も挙がっていたようです。
結局、無事レスリー・チャンに落ち着くまでの経過をご紹介しましょう。
『さらば、わが愛~覇王別姫』キャスティングの成り行き
当初はやはりレスリー=蝶衣だった!
1991年5月16日
レスリー・チャンがウォン・カーウァイ監督の『欲望の翼(原題:阿飛正伝』の演技で香港電影金像賞主演男優賞を受賞した際の記者会見で、現在何作かの映画のオファーを受けて交渉中であり、『覇王別姫』に出演する可能性が高いと発言。当時、レスリーはバンクーバーに住んでいたので、チェン監督はバンクーバーまで行ってレスリーと話すつもりだったけれど連絡がつかず、5月25日に会って話すことになっていると公表。
映画では張豊毅が演じた段小楼は、当時、ジャッキー・チェン(成龍)を考えていたそうですがギャラが高すぎて、ジアン・ウェン(姜文)をという話になっていたようです。
1991年6月頃
レスリーとチェン監督が会って蝶衣の役はレスリーにほぼ決定し、1992年2月から撮影に入ると制作会社のトムソン・フィルムズと口頭で話が決まっていたとのこと。それまでに北京語や京劇、北京の生活習慣などを身につけなければいけません。1989年に歌手引退宣言をしてから、カナダに居を移していたレスリーはカナダで大学にいこうとしていた計画をひとまず見送って撮影に専念するつもりでいました。
この時、段小楼のキャストはまだ決定してはいませんでした。
ジョン・ローンが蝶衣のキャストに自分を推薦
1991年10月
蝶衣のキャストはレスリーに決定したものの、撮影期間の問題で合意が得られず正式な契約を交わすには至っていませんでした。レスリーは撮影期間を4か月と限定し、それを契約書に盛り込むことを要求していましたが、チェン監督は撮影に期間の制約があることを嫌い、契約書に期間を盛り込むことを渋っていたようです。
この時、ジョン・ローンがチャン監督とトムソン・フィルムズの董事長・徐楓女史に、蝶衣の役をやりたいという意向を表明。しかし、チャン監督はジョン・ローンによるキャスティングをいいとは思っていなかったようです。
段小楼のキャストに関してはチェン監督自信が演じたいという意思があったようですが、徐女史は同意せず、台湾の俳優ウー・クォ・チュ(呉興国)を強く推していました。
1991年11月11日
レスリーがカナダから香港に戻り、レイモンド・ウォン(黄百鳴)監督と『ハッピー・ブラザー(原題:家有囍事)』の脚本について相談、また『藍江傳之反飛組風雲』に出演する契約を締結。スケジュールが動かせないため、ここで正式に『さらば、わが愛~覇王別姫』の出演を辞退。
レスリーがスケジュールにこだわっていたのはアメリカの映画会社から出演オファーが来ていたため、それ以前に取り終えたいと思っていたようです。
これによって繰り上げ式にジョン・ローンが150万ドルの出演料で『さらば、わが愛~覇王別姫』に出演することに、ほぼ決定。徐女史はレスリーがスケジュールの問題で折り合わず出演を辞退したことを非常に残念に思っていました。ちなみにジョン・ローンがアメリカやフランスの映画会社のオファーを断ってまで出演したいと思ったのは、チェン監督と仕事がしたいと思っていたため。
この頃、アジア太平洋映画祭で顔を合わせたジョン・ローンと顔を合わせた際に、レスリーは彼と握手して「楽しみにしています」と発言。
しかし、製作側はレスリーに未練
1991年12月18日
「ジョン・ローンは要求が多すぎる」として徐女史もチェン監督もこのキャスティングに不満を表明。
1991年12月21日
レスリーが京劇の外題『奇双会』に登場する青衣(女形の一種)の扮装で香港の月刊誌『号外』に登場。
これに関してレスリーは「やはり程蝶衣がやりたい」という意思表示であることを否定。ジョン・ローンの契約に問題が生じていることに関しては、「他人の問題にとやかく言うつもりはない」と。
しかし、レスリーは台湾から「号外」で撮影した1枚をチャン監督に送っています。「一緒に仕事はしなくても友人である」という意思表明だったとのことですが、この状況ではアピールと思われても
1991年12月26日
徐女史は初めから蝶衣にはレスリーがいいと思っていたようですが、話がまとまらなかったため、またジョン・ローンも非常に誠意とやる気を見せていたため、彼と話を進めることになったわけです。
しかし当初は国際電話で交渉を進めていて、ハンサムなイメージと、京劇の素養があることから、まずまず適任だろうと思っていたようですが、直接会って交渉していたわけではありませんでした。
ほぼジョン・ローンで決まった頃、徐女史はアジア太平洋映画祭でレスリーとジョン・ローンの2人と同時に会ってがく然、「しまった、間違えた!」と非常に後悔し、悔しくて何日も眠れなかったとのこと。
その後、具体的な契約内容を書いたファックスがジョン・ローンの弁護士から届くと、その第三条を見た徐女史はジョン・ローンとは契約しないと決めたとか。
結局レスリーに決まって大団円!
1992年2月
レスリーが正式にトムソン・フィルムズと『さらば、わが愛~覇王別姫』の出演契約を締結。
レスリーによれば、この作品に対する情熱はすでに冷めていたものの、チェン監督がわざわざ北京から2度も彼を訪ねてきた情にほだされたようです。「二顧の礼」ですね。すでにレイモンド・ウォンの作品への出演を契約しちゃっていなのですが、レイモンド・ウォンも彼の『さらば、わが愛~覇王別姫』出演を支持し、自分の作品の時期を遅らせてくれました。
こうしてレスリーによる程蝶衣が実現したわけです。
参考サイト:https://www.douban.com/group/topic/7195754/
犬のせいで契約がご破算に?
さて、ジョン・ローンの弁護士が送ってきた契約内容の第三条というのが気になるところです。当時のジョン・ローンは1985年に『イヤー・オブ・ドラゴン』で注目を集め、1987年『ラストエンペラー』で確実に世界的な大スターの座に着き、飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
その彼が要求した第三条とは「愛犬も一緒にファーストクラスで移動させること。またジョン・ローンと一緒に人用のゲートで入国させること」だったと言われています。
ネット上では「犬のために大作を逃した」「大物風吹かして監督とプロデューサーを怒らせた」というような書き方もされていますが、神経質そうで、こだわりも強そうなので、譲れない条件だったのでろうという気がします。それに完成した作品を観たら、ジョン・ローンも「これは、やはりレスリー・チャンが演じるべき役だった」と思ったのではないでしょうか。
ベッカムやレディ・ガガなどが飛行機で移動する際は愛犬もファーストクラスだと聞きますが、当時の中国映画界では度肝を抜かれたのでしょう。
しかし、こうしてみると名作が世に出るのはやはり一種の奇跡だと思わざるを得ませんね。