ウォン・カークイの最期をパル・シン(单立文)が語る「あらゆることを試した」

BEYONDが香港に凱旋するための活動の一環だった日本での活動。
しかし、バンドの魂とも言うべき人物、ウィーク(黄家駒)は日本で客死してしましました。

6月24日未明、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』収録中に転落事故で重傷を負ったウォン・カークイ。
その容体は当時も詳しく報道されては射なかったようですが、香港のQジシャンでもアリ俳優でもあり、実際にウォン・カークイの最期に立ち会った人物、パル・シン(单立文)が出演した番組の中でウォン・カークイの最期について語った動画をご紹介します。

 

ウォン・カークイ(黄家駒)の兄貴分パル・シン(立文)

 

1993年6月24日未明、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』収録中の事故で重傷を負った

司会者:ロックの味わいたっぷりの髪型ですね。

パル・シン:戦士のイメージなんだよ。

司会者:青い戦士ですね。

パル・シン:そう、宇宙の戦士だ。

司会者:SFの世界!

パル・シン:そうそう。

司会者:当時の音楽界ではグループやバンドが流行していましたね。
興味はありましたか。たくさんいたでしょ?

パル・シン:一番、仲がよかったのはBEYONDだ。
ウォン・カークイにはよく会いに行ったよ。
理由は分からないが彼は私を慕ってくれて、おしゃべりしたり、いろいろなことを討論したりもした。

司会者:当時、何を話しましたか?

パル・シン:カークイは弁が立って、音楽について意見を戦わせるのが大好きなんだ。
一般論を言ったりすると、それを覆すのが好きで、論破するまで議論を続けるし、しかも多くの事実を根拠に挙げる。
例えば、彼は残酷なビデオも見るし、ボーカルのMVもたくさん見ている。
それを私に見せて理論を繰り出す。

司会者:カークイの言葉で自分が変わったというようなことはありますか?
揺るぎない信念を聞いて、そうだなと思ったことは?

でも我々がロックをやる立ち位置や理想、考え方は基本的にはあまり差がなかったからね。
平和と愛がロックには重要で、公正でないことには声を上げる姿勢も重要だ。
不公平なこと、正義にもとることがあれば、社会のために声を上げる。我々は最初に声を上げる前線分子なんだ。
彼が考えること、考える過程はとても愉快なんだよ。

司会者:コラボしたことはありますか? カークイと一緒に曲を作るとか?

パル・シン:それは、なかったな。
でも、セッションはよくしたよ。
カークイがうちに来て、一緒に朝までギターを弾くんだ。
正直言って疲れたよ。

司会者:でも追い出さないんですね。カークイは疲れないんですか?

パル・シン:いや本当は、あの頃はみんな時間を忘れて弾いていたんだ。
一緒に過ごした時間は過ぎるのが早かった。
みんな楽しんでいたからね、宝探しのような時間だった。
急に新しいことを発見して、みんながわあっと喜ぶ。
それがまた、いいフレーズとか、うまい手法とかを思いつかせるんだ。

 

病院でのウォン・カークイの最期

司会者:カークイの死はあなたにとって大きな打撃でしたか?

パル・シン:そうだね…… 大きな打撃だった。
彼が逝ってから、どれほどの年月だったかは忘れたけど、長いことBEYONDの曲を聴けなかったんだ。
カークイが歌っている曲も聴けなくなったんだよ。

聞けば、すぐ泣いてしまう。大泣きしてしまうから、聞かないようにしたんだ。
どれほどの帰還だったかは忘れたけどね。
本当に残念だと思う。
カークイが逝ってしまうなんて、しかも、あんな形で別れるなんて。
事故から3日後には私も日本に飛んでいた。
スティーブ・ウォン(黄家強)から電話があったので、すぐに飛行機のチケットを買って、3日後には日本にいた。
最後の過程は本当に混乱していた。

司会者:信じられなかったから?

パル・シン:いや、落ち着く時間がなかったんだ。
何をすればいいか、何が助けになるかとかいうようなことを考える余裕がなかった。
でもしばらくして、いろいろなことをこうしたらいいだろうかとか、これが助けになるだろうかとか考え始めた。
彼のすぐそばで状況を見ていたからね。
でも、いろいろな部分で本当に……。
今となっては、どう言っていいのか分からない。
それに今では、もう重要じゃないと思う。
事態はもう起こってしまったんだからね。

司会者:日本に行った時、あなたは何歳でした?

パル・シン:順番に話して。君からどうぞ。

司会者:あなたが日本に着いた時、カークイはもう昏睡状態だったんですよね。

パル・シン:そうだ。

司会者:では、カークイとは何のコンタクトもできなかった?

パル・シン:できなかった。集中治療室に入っていくと彼がいた。
その時は昏睡状態で、顔もむくんでいた。
頭を打って顔がむくんでいたんだ。

私はカークイの手を握って、「カークイ、来たよ。早く目を覚ませよ。早く起きろ。遊びはもうおしまいだ」というようなことを話しかけた。
家族もそばにいるからね。
私があまり感情的になってはいけないと思ったんだ。
できるだけ何でもない調子で、興奮せず話すようにした。

その時、どういう状況なのか詳しくは分かっていなかったしね。
でも深刻な状況であるのは見て分かった。
それで、いろいろとごちゃごちゃした儀式のようなことをしたり、今考えると……。
それまでにそういう時間を過ごした経験もなかったから、私の気持ちも混乱していたんだ。
走馬灯のような1日があっというまに、また過ぎて、最後はスティーブとポールが柩に入れて香港に運んだんだ。

司会者:病院ではカークイを目覚めさせるか、知覚を取り戻させるために、いろいろなことを試したそうですね。

パル・シン:当然そうしたさ。
わけの分からないことも試したよ。
絶望的な状況だったんだ。

司会者:どんな方法ですか?

パル・シン:知っていることはすべて試したよ。
バカバカしいようなこともね。

司会者:歌を歌って聴かせたりとか?

パル・シン:もちろんやったさ。
カークイの服を持って、呼び戻すようなこともしたよ。
本当に……、いろいろな方法を試した。

司会者:その時の経験で、あなたの人生観が変わったりしましたか?
物事に対する姿勢とか?

パル・シン:大切にするようになった。
よく言われることだけど、みんなかけがえのない物事を大切にするべきだと思うようにね。
まさか最後だとは思っていなかったのに、あの時会ったのが最後だったというようなことが世の中では起こるからね。
日本に行く前、カークイはうれしそうに話していた「明日、発つんだ」と、私の家で話していたんだ。
あの時を最後にカークイを失ってしまうなんて思いもしなかった。
行ったきりで二度と戻らないなんてね。

 

“BEYONDは香港のバンド”という自負

司会者:カークイと最後に話したのは、どんな内容でしたか?

パル・シン;カークイは日本でつらい思いをしていた。
香港のバンドとしてのプレッシャーが大きいと言っていた。
1つにはプレッシャー、もう1つには“自分たちは香港のバンドだ”という思いがあって、日本に長く滞在したいとは思っていなかったこともある。
日本でうまくいけば、香港でも大丈夫だと考えていたんだ。
でも日本の事務所との契約があるから、向こうで頑張っていた。

「ともかく今のアルバムができたら考えよう」と私も言ったんだ。
「アルバムができたら香港に戻ってこい。私の時間がうまく合えば、お前の好きなアルバムを作ればいい。どんな曲でもいい。インスツルメンタルでもボーカルでもいい。私が手伝うよ」と。
カークイの不安定な精神状態を和らげるつもりだった。。
「忙しい。ただそれだけだ」と言っていた。
香港のファンはBEYONDが香港を捨てたと思っているだろうという不安もあったんだ。

司会者:カークイの友人であり兄貴分として、残されたBEYONDの3人がいろいろもめたりして、ついに解散したのを、どう思いますか?

パル・シン:あの時、みんながバラバラになったような気がするね。
強制するようなことじゃない。
無理強いしても幸せにはなれない。
彼らの思うようにすればいいと思う。
“レットイットビー”だよ。
ビートルズが解散前に言った言葉だ。
それぞれに任せるしかない。強制はできない。

司会者:関係が最悪だった時にはボールとスティーブの罵り合戦でしたが、兄貴分として「2人は少し口を慎むべきだ」とは思いませんでしたか?

パル・シン:ずっと言ってきたのは、これは内輪の問題だということだ。
外部の者が口を挟むべきじゃない。
どこのバンドでもそうだろう。
それぞれの事情は外部のものには分からない。
彼らには彼らの歴史がある。
閉ざされた門の中では、いろいろなことがあったんだろう。

一般的な道理は誰でも理解できる。
それを言っても一時、状況を緩和させる程度しかできない。
さもないと火に油を注ぐことになる。「こうしろ」と言ったら悲惨なことになる。
「何だと、もういっぺん言ってみろ」とね。

司会者:3人いるから誰かの肩を持ったりしたら?

パル・シン:そう、面倒なことになる。

司会者:試したことがあるんでしょ?

パル・シン:そのとおり。


“気功師を呼んだ”とか“漢方薬を試そうとして日本の税関で止められた”とか、いろいろ言われていましたが、やはり、ウォン・カークイの命を留めるべく、いろいろなことが試されたようです。
そして、その前提には現代医学では手の施しようがない絶望的な事態があったことが分かります。

香港の音楽界を批判していたウォン・カークイは香港を捨てたわけではなく、日本で活躍して影響力を持つようになって凱旋すれば、香港音楽界を変えられるかもしれないと考えていたのかもしれません。
中国政府にとって香港が文化経済の先端だった返還前とは状況が違う今、香港を特別扱いすべき価値がないと政府が考えれば返還の際に約束された一国二制度も、いずれ見直される可能性が大です。
最近の香港のデモを見て、ウォン・カークイが生きていたら何を思うだろうと考えてしまいました。

ウォン・カークイは自分の死を予知していた?歌詞や生前の行動に死の予兆?

ウォン・カークイ(黄家駒)死亡事故の詳細!なぜBEYONDは日本デビューしたのか?

スポンサーリンク